3rd Squadron
Pege-5
↑ 1985年の三沢航空祭は、前年の1984年に配備が開始された432d TFWのF-16A/B部隊との初めての競演が期待されたが、天候は生憎の雨模様、雨が上がっても空は鉛のように暗い中、F-1は、16機の大編隊を組んだ。第3/第8飛行隊の所属するT-2高等練習機にもF-1と同じ迷彩が施されていた。この年3sq所属のT-2は、186号機(49-5186)と190号機(49-5190)
1984年は、アメリカではレ-ガン大統領が再選を掛けた大統領選で最終的に地滑り当選となり、二期目を確定させた。一方日本では第2次中曽根内閣がスタートして、日米は強固な連携を取りながら東側諸国との対決姿勢を堅持していき、政治的にも安定期に入ろうとしていた。片やソ連の方はアンドロポフが死に、病気がちのチェルネンコがエスカレータ式に書記長になったが、ブレジネフ時代のような長期政権は難しいと考えられ、政治的に不安定な状況であった。この年、東アジアの防衛強化の一環として、三沢基地に第432戦術戦闘航空団が配備され、日本本土で唯一のF-16A/B戦闘機航空団がスタートとした。F-1の対艦、対地攻撃能力と共に、沿海州や極東ソ連軍のレーダー網、防空施設を叩ける長い槍が三沢に備わった事になる。F-1部隊もローカルでの訓練だけでなく、日本全国にスムーズに展開できる能力が求められ、移動訓練も増えて行くのである。(2024年2月 記)
↑ 上の一連の写真は、渡辺氏が1984年6月に小松基地の柵外で撮影されたF-1のACMでの活動を捉えたもので、ドラッグシュート収納部の様子から、当日の風向きはR/W-06であったようだ。1983年に書かれたシャークティースの機体は、航空自衛隊の”迷彩部分に国籍マーク・部隊マーク以外のペイントをしてはならないと言う塗装規定を逸脱していた所為か、薄いグリーンでオーバースプレーされていたそうであるが、今回1984年のF-1各機の鮫口は鮮やかな白と赤をそのまま使っているようである。1985年以降も次第に各飛行隊はACMの際、またそれ以外の期間でも、様々なロービジ塗装や特別マークを採用するように大胆になって行く。
↑ 航空自衛隊ACM(航空総隊総合戦技競技会)にF-1戦闘機 3個飛行隊が参加してFS部門の優勝を掛けて戦うようになって、1984年ACMは4度目の競技会にあたる。1983年259号機(10-8259)の機首に書かれたシャークティースは今回3Sqの参加機全機に施され、1983年8Sqに奪われた優勝の奪回を目指したが、1984年FS部門の勝利は築城の6Sqに輝くことになる。但し、マーキング的にその後のFS部門参加機の塗装に大きく影響を与えた事は確かだった。
↑ 1984年10月 久々に百里基地に行ってみると、そこは移動訓練で来ていた航空機で一杯だった。4空団(松島)から8機のT-2高等練習機が飛来しており、写真でお判りのように三沢から8機のF-1が移動訓練で百里に展開していた。211号機は、この後6Sqに移動している。この年 第3飛行隊のF-1各機のコックピット横には機付長らしき担当者名がペイントされていた。
↑ F-1戦闘機の各機は、両翼と胴体下に220ガロンの増装燃料タンクを3本抱えた移動訓練中ならではの姿で飛行している。F-1のカタログ性能で、増装タンク3本を付けた場合の最大航続距離は1400カイリ(nm)で、キロメートル単位で約2600Kmをを移動できる。航続距離が短いと言われたF-1も、片道であれば北海道から沖縄までは、ほとんど問題なく移動できたわけである。
↑ 百里の旧アラートハンガーが見えるが、当時R/W-03側ピン抜きエリアは、農地からの撮影が可能で、午前中はタキシングが撮れる絶好の場所だった。1984年10月当時は、204SqのF-15C/Dが配備され始めた頃で、未だ301Sqと305SqのF-4EJは百里におり、901SqのRF-4Eもいたことから、実質4個飛行隊が混在していたのである。それに移動訓練部隊が加われば、1日のフライト数は相当なものであった。
↑ 装備品の展示として赤い爆弾型のものは、曳航して使われる超高速ミサイル標的。ロケット弾ポッドも2種類展示、奥のは127㎜ロケット弾4発収納用PL-4/手前の収納本数が多いのは70㎜ロケットのランチャーである。267号機は、この後8Sqに移動。
↑ 1984年ACMに参加した3SqのF-1戦闘機は、参加機全てにシャークティースが書かれていたそうであるが、この80-8223号機のインテークベーンには「投弾成功祈願」?または、「投弾部門で良い成績が出すぞ」という意味かもしれないが、競技前から2つの爆弾マークが入っていた。
↑ 1984年ACM(航空総隊総合戦技競技会)に参加した際の3Sqのシャークティース塗装機で唯一大きな舌を出した絵柄の機体。原案は1983年には用意されていたそうであるが、実際に小松に展開したのは1984年のACMだった。この時は、F-1部門総合優勝は九州の6Sqに輝いている。
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